米の味

 魚沼産コシヒカリって美味しくないね。あともう一袋あるけれど、あまり食べる気がしない。無料じゃなかったら二度と食べることはないだろう。あきたこまちの方が甘味があってもちもちしていて美味しい。安い炊飯器と東京の水道水を使っていたときは銘柄によって味が違うことを実感できなかった(コシヒカリはえぬきもひとめぼれもゆめぴりかも何が違うのか分からなかった……)けれど、ちゃんとした水を使って鍋で炊くようにしたら違いがはっきり分かった。あきたこまちコシヒカリと奥羽292号を掛け合わせてできた銘柄だからコシヒカリより美味しいのは当然と言えば当然か。世間ではなぜか魚沼産コシヒカリが持ち上げられているけれど。群馬のクソが新潟で米食べたらうまかったと言っていたが、群馬の米はどれだけまずいのだろう。父が出張で新潟に行った時に食べた米はまずかったらしい。やっぱり普段からおいしいあきたこまちを食べているとコシヒカリごときじゃ感動しないんだろうな。東京の飲食店でたまにびっくりするほどまずい米に遭遇するが、ああいうのばかり食べているバカがネームバリューに釣られて魚沼産コシヒカリを買うんだろうね。そしてうまいうまいと絶賛する。そりゃあ、普段あんな飼料米かと疑いたくなるような米を食べていたらどんな米でも美味しく感じるだろう。
 あー……炊きたてのご飯と豚汁が食べたくなってきた。

genuine

 午後に優雅にピアノを弾いていたら(うそ、本当はとっくに飽きて、手も疲れていた)父親から電話がかかってきた。「もしもし」と何回か言っても、父の声は聞こえない。聞こえるのは「ハアハア」という人間の息づかいだけ。しばらくすると息づかいは消え、「ジュイーーーーーン」という機械音が響く。これは、父からのSOSなのだ!彼は今、危機に瀕している!たとえば、殺人鬼に捕まり、生きたまま解体されようとしている……。この「ジュイーーーーーン」はチェーンソーで、父の同僚がやられている音かもしれない。怖くて、どうしていいか、分からなかった。通話開始から25分ほど経過しただろうか、機械音が止んだ。思いきって父からの電話を繋いだまま、彼の仕事用のケータイにかけてみた。すぐに出た。父は私がなぜ電話をかけてきたのか不思議そうだった。「今、仕事用のケータイしか持ち歩いてないんだよ」。車にプライベート用のケータイを置くときに、うっかり画面が反応して、たまたま私に電話がかかっちゃったということなのだろう。ああ、びっくりした。一安心。
 拍子抜けして、ぼんやりと座り込んでいたが、次第に不安になってきた。父にやはり何かあったのではないか。私が愚かにも仕事用のケータイに電話をかけたから、殺人鬼に勘づかれて、父は喉元にナイフを突き付けられ、脅され、私に何でもないようなふりをしたのでは?父はもう殺された。父の脳みそをすすった悪魔が父に成りすまして家のドアを開ける。今晩中に母も悪魔の手にかけられる。何もかも偽物の世界が広がる。私だけが、いっそのこと私も偽物であればいいのに、という思いを抱いたまま、どうしようもない本物として生きていく。

村上春樹

 この人の話の主人公は本当によくセックスをする。1970年代の東京では冴えない男でもセックスできたのか。顔はかっこよくはないけれど、不快感を与えるほど不細工ではなく、色気がある男……というのが春樹の主人公だと思っている。それでいて、僕は(東大生ほどは)頭がよくないよ、なんて白々しいことを言ってる。本を読んでいるとムカつくけれど、もしそんな人と関わることがあったら、私もきっと好きになっちゃうんだろうな。
 1970年代は私の両親はまだ子どもだったから、その当時の「東京」の「大学生」がどういうものだったか知らないだろうし、春樹の主人公がどれほどのリアリティーがあるのか掴めない。とにかく、先行きの明るかった日本の、一番大きい都市である東京で、青春を過ごした人間が羨ましい。

拠り所

 久しぶりに酒を飲んだ。1万円くらいの、アルマニャック。本当に久しぶりだったから控え目にしておこうと思ったけれど、自制するまでもなかった。開けてから半年以上経っているからか、口に含むと媚びるような甘さの後に古新聞の味を感じた。古新聞の後にまた甘みを感じ、最後はブックオフの店内になった。古本、古着、オタクの体臭。それでもドライフルーツをつまみながら飲むとブックオフは少し薄れた。残った酒はブランデーケーキに使う。酒はおいしいけれど、私は酒を飲むべきではないのかもしれない。飲んでも楽しくなるわけでもないし、嫌なことを忘れられるわけでもない。おいしいというだけなら、コカ・コーラでも飲んどけばいい。酒が飲める年齢になって助かったことと言えば、何かあったときに、酔っ払っていたことを言い訳に使えることだろうか。本当は少しも酔っていないのに、そう言うと、大抵の人間は理解してくれる(気がする)。
 葉巻もずっと吸ってない。この前、映像の世紀の再放送を見たが、映像に残るチャーチルは基本的に葉巻を手にしていた。それで、久しぶりに吸おうかなと思った。高いのは勿体なくてずっと手をつけていないけれど、そうこうしているうちに、今日飲んだアルマニャックと同じことになりそう。でも、先月だったかな、炭火で黒焦げになったシシトウを食べたらコイーバのエッセンスを感じた。もう葉巻なんていらないじゃんと思った。
 酒も葉巻も以前ほどの興味がなくなった。それどころか、スポーツや映画、アニメなんかにも情熱を注げなくなった。一番ショックだったのは、小学生の頃夢中になったブルース・リーの映画を見たら、もうかっこいいと思えなくなっていたこと。興味の消失はスマホでインターネットばかりしているせいかと思ったけれど、最近の私はスマホを手にしても、特にすることもなく、握りしめているだけ(不思議なことにそれでも時間はどんどん溶けていく)。ごく稀に他人と話すと頭が働かないし、変なことを口走る。それから、愛想笑いをするだけで、頬の筋肉が痛くなる。人として本当に終わりだよ。最近はヤフーのトップニュースすら見たくない。まだ生きていることが恥ずかしいから。とにかく、左の乳首が猛烈にかゆい、

本当は誰かに見せたいんだろ

 クヌート・ハムスンの『ヴィクトリア』、アマゾンの欲しいものリストにずっと入れっぱなしにしておいたら、いつの間にか在庫切れになっていた。岩波書店のウェブサイトで確認してみたら品切れだってさ。ネット書店を見ていたら新品を取り扱っているところがいくつかあったけれど、どこも送料がかかる。送料が無料になるギリギリのラインを攻めて他の本もついでに買おうと思って、何を買うか2時間頭を悩ませたけれど、結局何も買わなかった。私がこうして悩んでいるうちに読みたい本はどんどん重版未定の品切れになっていくのだと思うと、やるせない。欲しいと思ったらすぐに買わないと手遅れになるかもしれないというのは分かっていても、中々それをする余裕というのがない。趣味は、おもしろくない(この「おもしろくない」というのは、退屈で不愉快ということ)人生を彩ってくれるし、趣味が生き甲斐という人もいるけれど、私に関して言えば趣味は全くお金を必要としない範囲内でやるべき。少なくとも今年はもう生活以外にお金は使わないことにしよう。でもダイヤのAの新刊だけは買いたいな。
 夜はだめだね。どんどん嫌なことが溢れてくる。楽しいことを考えても、それってただの妄想じゃん。現実じゃないから余計悲しい。私はこれからも色々な人をバットで殴りながら生きていくのだろう。もう、どうでもいいんだ。全然どうでもよくないけれど、どうでもいいことにしてとりあえず今は終わらせなければ、眠れないから。

例外

 必要に迫られてフランス語の勉強を始めた。フランスに興味はないし、フランス語圏にも興味はないけれど、必要だから勉強しなければならない。まあ、勉強してフランスの料理の本でも読めるようになったらほんの少しは自分の楽しみにも繋がるかな。そう思って昨日から勉強を始めたのだが、第一章アルファベでもう躓いた。これはスペイン語の時もそうだったのだが、英語とは違うABCの読み方を覚えるというのは簡単なことのように思えてすごく難しい。テキストには親切にも?カタカナで発音が書かれているが、CDから聞こえるフランス人の発音と一致していない気がする。とりあえずカタカナは無視して自分の耳を信じてABC……とCDに続いて発音していくが、何度聞いてもRの発音が分からないから、テキストを見ると「エール」と書かれていた。いや、絶対に「エール」ではない。「エー」までは分かるけれど、確実に「ル」ではなかった。なんかこう、喉の奥から牛のゲップと溜め息が混ざったような音をさせている。アルファベをそのまま読む機会なんてそんなにないだろうし、とりあえず次に進むことにした。しかし、先に進んでもRの奇妙な発音は付きまとってきた。フランス語を話せるようになる必要はないし、読めさえすればいいのだから、発音は無視して勉強を続けようかと悩みもしたが、やはり音読ができないと効率的な学習の妨げになる。そういうわけで、Rの発音を体得できるまでは、フランス語の勉強は休憩だ!
 フランス語を少しやってみて気づいたが、やっぱり外国語って楽しい。今となっては道具でしかないけれど、中学で英語を習い始めた頃は、パズルみたいでおもしろかった気がする。そういう懐かしさに誘われて、もう一度英語を勉強してみようかなと思った。もうずっと決まりきった表現しか使わずに過ごしているので、随分たくさんのことを忘れてしまっている。BBCのサイトで興味のあるニュースを読んで、そこから文章の書き方を学ぶことにした。数ヶ月返信していないメールがずっと頭の片隅にあるから……。ニュース記事を読んで言わんとすることは理解できても、文章の細かい部分に理解できないところがいくつかあった。辞書や文法書をひっくり返しても知りたいことが書いていない。ネットで検索したら、私の疑問というのは、研究者が論文一本書けちゃうようなものだったので、ほっとした。
 いくつかの言語を勉強して、その度にいつも、完全にシステマティックな言語を誰か創造してくれないかなあと思うのだが、今日ようやく気づいた。言語というのは人々が使っているうちに変化を遂げていくのだから、たとえ人工的に生み出された時点ではシステマティックであっても、時の経過と共にそうではない部分が生じてくるのだろう。国語辞典が言葉の意味を決めているわけではないということを思い出した。語彙に限らず、言語の他の要素もきっとそうに違いない。

雨に濡れて帰ろう

 ようやく自分の「障害」を社会性の不具であると実感できた。それを理解した瞬間、これまで多くの人を傷付けてきたことを知った。私が他者に傷つけられた記憶は全部、私が他者を傷つけた記憶に他ならなかった。
 午後から雨の予報だったらしいけれど、そんなの知らなかった。だって昨日の夕方の時点では明日は一日中晴れって言ってたもん。走るのはエレガントではないと信じているから「如何なる時も優雅」なんてダー様を思い浮かべながら気持ち大股で歩いていたら、高校生カップルが屋根のあるベンチに走って行くのを目撃して胸が締め付けられた。本当にカップルかは知らないけれど、そんなことは問題じゃない。恋人であれ友人であれ、制服を着て異性と肩を並べて行動するということ。私には存在しなかった青春。一生経験できない青春。少女マンガの世界の出来事が目の前で起こった。彼らは走っている時の顔の揺れだとか、前髪の乱れだとか、汗をかくことだとかを心配することもなく生きていられるのだろう。制服を着ているうちに恋愛(あるいはそれに準ずる何か)が出来なかった人間がみんなこのみじめさのようなものを抱えているのなら、新海誠が流行るのも分かるかもね。私は大嫌いだけれど。
 帰る頃には雨が止んでいたけれど、ちょっと歩くとまた降ってきた。エレガンスのためにというのもあるけれど、私は単純に雨に打たれるのが好きだから、傘を持っていなくても走らない。普段雨の日に傘を差すのだって状況がそれを許すのならやめたいくらいだ。雨に打たれていると自分が主人公みたいな気がしてくるんだな。悲しみに打ち拉がれて雨の中をとぼとぼ歩くアタシ……。太宰治の「思い出」を読んで、こいつはとんでもない自己演出家だ!と笑ったけれど、馬鹿にできない。美人なら画になるんだろうけれど、びしょ濡れで歩く私はかなり醜い。雨は、悲劇のヒロイン気取りに十分な程度を大幅に超えて降る。もういいよと思ってもどんどん降る。雨に皮膚を貫かれるのではというくらい激しく降る雨が痛かった。靴の中まですっかり濡れて、歩を進めるたびに靴の中で水がにゅるにゅる動いた。用水路から水が溢れ、道路は川になり、坂道は小さな滝になっていた。もうパンツまで完全にびしょびしょだから、道路で泳いだっていいもんねと思っていたけれど、車に茶色い水をぶっかけられるとやっぱりむかつく。以前からトイレ以外の場所でおしっこしてみたいと思っていたから、全身ずぶ濡れの今こそ歩きながらするべきだと思ったのに、こういう時に限って尿意が訪れない。いや、勇気がなかっただけかもしれない。ちょっと股に力を入れればおしっこは出てきたと思う。
 話の通じない人間の多さに辟易していたけれど、みんなからすれば、私がおかしかったんだよな。これまでの自分を可能な限り客観視してみたら恥ずかしくなった。私は他人の用いる言葉の定義にはうるさいのに、自分の言葉に関しては相手に当然の理解を求めている。普遍的な条理や社会通念に照らし合わせて適当か否かではなく、自分の中の勝手なルールに相手を巻き込んでそれを基準に物事を判断する。これは嫌われて当然。紙切れ1枚で認識が転覆した。もう人とほとんど関わるのをやめて半年近く経って、意外と私って他人と話さなくても平気じゃんなんて思っていたけれど、たまに襲ってくる不安を打ち消してくれる存在を探していた。危うく犯罪に手を染めるところだった。もう自分でビンタするよ。