雨に濡れて帰ろう

 ようやく自分の「障害」を社会性の不具であると実感できた。それを理解した瞬間、これまで多くの人を傷付けてきたことを知った。私が他者に傷つけられた記憶は全部、私が他者を傷つけた記憶に他ならなかった。
 午後から雨の予報だったらしいけれど、そんなの知らなかった。だって昨日の夕方の時点では明日は一日中晴れって言ってたもん。走るのはエレガントではないと信じているから「如何なる時も優雅」なんてダー様を思い浮かべながら気持ち大股で歩いていたら、高校生カップルが屋根のあるベンチに走って行くのを目撃して胸が締め付けられた。本当にカップルかは知らないけれど、そんなことは問題じゃない。恋人であれ友人であれ、制服を着て異性と肩を並べて行動するということ。私には存在しなかった青春。一生経験できない青春。少女マンガの世界の出来事が目の前で起こった。彼らは走っている時の顔の揺れだとか、前髪の乱れだとか、汗をかくことだとかを心配することもなく生きていられるのだろう。制服を着ているうちに恋愛(あるいはそれに準ずる何か)が出来なかった人間がみんなこのみじめさのようなものを抱えているのなら、新海誠が流行るのも分かるかもね。私は大嫌いだけれど。
 帰る頃には雨が止んでいたけれど、ちょっと歩くとまた降ってきた。エレガンスのためにというのもあるけれど、私は単純に雨に打たれるのが好きだから、傘を持っていなくても走らない。普段雨の日に傘を差すのだって状況がそれを許すのならやめたいくらいだ。雨に打たれていると自分が主人公みたいな気がしてくるんだな。悲しみに打ち拉がれて雨の中をとぼとぼ歩くアタシ……。太宰治の「思い出」を読んで、こいつはとんでもない自己演出家だ!と笑ったけれど、馬鹿にできない。美人なら画になるんだろうけれど、びしょ濡れで歩く私はかなり醜い。雨は、悲劇のヒロイン気取りに十分な程度を大幅に超えて降る。もういいよと思ってもどんどん降る。雨に皮膚を貫かれるのではというくらい激しく降る雨が痛かった。靴の中まですっかり濡れて、歩を進めるたびに靴の中で水がにゅるにゅる動いた。用水路から水が溢れ、道路は川になり、坂道は小さな滝になっていた。もうパンツまで完全にびしょびしょだから、道路で泳いだっていいもんねと思っていたけれど、車に茶色い水をぶっかけられるとやっぱりむかつく。以前からトイレ以外の場所でおしっこしてみたいと思っていたから、全身ずぶ濡れの今こそ歩きながらするべきだと思ったのに、こういう時に限って尿意が訪れない。いや、勇気がなかっただけかもしれない。ちょっと股に力を入れればおしっこは出てきたと思う。
 話の通じない人間の多さに辟易していたけれど、みんなからすれば、私がおかしかったんだよな。これまでの自分を可能な限り客観視してみたら恥ずかしくなった。私は他人の用いる言葉の定義にはうるさいのに、自分の言葉に関しては相手に当然の理解を求めている。普遍的な条理や社会通念に照らし合わせて適当か否かではなく、自分の中の勝手なルールに相手を巻き込んでそれを基準に物事を判断する。これは嫌われて当然。紙切れ1枚で認識が転覆した。もう人とほとんど関わるのをやめて半年近く経って、意外と私って他人と話さなくても平気じゃんなんて思っていたけれど、たまに襲ってくる不安を打ち消してくれる存在を探していた。危うく犯罪に手を染めるところだった。もう自分でビンタするよ。